大越健介 講演『ニュースの現場から』

大越 健介(日本放送協会(NHK)報道局記者主幹)/88回卒)

2019.06.21
講演

高校3年、甲子園への挑戦

  皆さん今晩は。ただいま過分なご紹介をいただき恐縮です。椅子が後ろ向きの方は体をよじったりしたままでは疲れますので、椅子の向きを変えるとかどうぞリラックスして聞かれますようお願いします(注;会場は対面式テーブル・椅子配置)。

 ちょっと顔が赤いぞと言われ、飲んでないのに赤いのはよろしくないと、飲んだから赤いということにしようと、いまウェルカムドリンクを急ピッチで飲んで、講演があるということを忘れていましたが、お話しをさせていただきます(笑)。

 先日、久しぶりに新潟のあるスポーツ雑誌から取材を受けました。ラグビーで新潟工業高校時代に日本代表フォワードでも活躍した確かヤエさんという方の特集で、今57歳での話が載っていましたが、未だに18歳の時の映像で出ていました。

 去年夏の高校野球新潟県予選での母校の快進撃で、これは甲子園に行くんじゃないかと、いつもは取ってない新潟日報のネット版をにわかに配信設定しワクワクして見ていましたが、新発田高校に敗れてのベスト4。
 


僕も高3年の時はピッチャーとして、春は準優勝、決勝で新発田高に負けました。準決勝で長岡高に5-1で完投勝ち、同じ日にお互い連投となり・・・3-3で延長10回、珍しくBSNのTV中継があったのですが、選手の健康に悪いということで、再試合で3-1で負けた。夏は準々決勝で春に勝った長岡高に2-12の5回コールドで叩きのめされ高校での野球は終わりました。

 これでもう野球はやめようと思った翌日、一晩寝たら、また野球をやりたい気持ちが湧き出しました。大学で野球を続けようと。それも東京六大学だ!と。

 しかし早慶立明法には甲子園に出たり全国の有力選手などが入学したりでとても勝負にならない、そういうことから東大しかない!と思い、こういう理由で東大を目指したのは当時の受験生で恐らく私一人しかいないでしょう。1年浪人すれば入れるだろうと!成績も浪人中には伸びるだろうと思ったがそれは大間違い、サッパリ伸びませんでしたが、どうにか強心臓で合格。その後は冒頭の司会者の紹介にあったような活躍(笑)でした。

 

「記号」というもの

さて、毎日、自分のアイデンティティーは何かと考えています。

 3歳で両親の仕事の関係で寺泊から新潟市に移り、・・・新潟高校で、そして野球部でこの上もない経験を重ね・・・東大・・・そしてNHKに入る。新潟から多感な時代のアイデンティティー、新潟高校でのこと、今もそのままで生きてはきているが、それだけでなく、その後もNHKのアイデンティティーを含めてすでに40年以上たっているが、とにかくいろんな自分がいた。

 皆さんもそれぞれが、「記号」というものを考えてほしい。

 私は・・・東大、NHKと進み…子供も3人、人にはいろんな記号がついてまわる。場合によってはひとつのレッテルを貼ってみてはいないか?よく人をひとつの記号として見ることがあるが、どうかひとりの人間として見てほしい。

 記者時代に一番の思い出があるのは、東日本大震災です。報道される「被災者」、「被災地」という記号を考えてみた。ともすると、われわれは「ひさいしゃ」や「ひさいち」という記号のひとくくりで見てはいないだろうか?映像化されたものを記号化したり、被災地は・・・被災者は・・・復興は・・・と?あるいは憲法問題・世界情勢でも、報道される戦争・難民などでも同様に。

 どの場合でも、一人ひとりにそれぞれ生活・境遇などバックグラウンドや思いなどの人生がある、それぞれが愛したものがある。それなのに、マスコミ人間は、ヒサイシャ・ヒガイシャは云々・・・という記号呼んでしまう、政府は復興しましたと言ってしまう。

 実際に、釜石では高台で被害のなかった公営住宅には岩手県の各地から終の棲家として移ってきた。それを市の人が見回る・・・。こういう人と話すと、アノヒト・ヒサイシャ・・・と越してきた人達を記号の「ヒサイシャ」というが、皆それぞれの事情・生活・背景があるのに、それをこの人達を記号として見てはいないだろうか?

 青山の人達も大人になって人を記号としてみていないか立ち止まって考えてほしい。弁護士になったら、立場上から仕事として弁護する、個人として記号で見ていないか?それぞれの人は、背景や人生を持っているだろうに。ときに、ひとつの記号でくくるという危うさをも考えてもらいたい。ヒサイシャのために、安定してきたら、その人なりの暮らし・人生・考えはそれぞれ違う、それぞれの人生があり悲しみもあることを忘れないでほしい。また、仕事をしてゆく上で忘れてならないのは、記号として人間を見ることの危うさを考えてほしい。

 世界情勢の取材では、難民排斥のための米国・メキシコ国境の壁につき、トランプ大統領の自国第一主義であったり、国の防衛への不安要素として中には麻薬・マフィアも流入しそこからの防衛策として、難民入国拒否を煽る。

 しかし、移民として見ず難民のレッテルで見るのは、大統領として仕方ないにしても、心の幅を持って人間が必死に生きようとしているのを見捨ててはいないか?ホンジュラスからは多くの人が止むにやまれず家を捨て、命をかけて何日も歩き通しで米国境越えを目指している。それを国の安全確保上からは仕方ないにしても、それでも移民=難民=犯罪人と記号だけで見ていないだろうか?人間、簡単には白か黒かなんて決められないこともある。世の中はよくならない。
 

自分はまだ何も知らない

スポーツにはひとりひとりの人間の輝きを見せる姿がある。メダルの数を追うばかりでなく、そうしたひたむきなアスリート達の素晴らしさを感じる。スポーツを通じて、人の可能性を見る。人を記号としてみないよう各人の思いを感じてほしい。
 


新潟高校野球部のOBOGたちと

高齢者の運転事故の問題についても、ひとくくりに止めろとかいうことよりも、ひとりひとりの事情・背景も考慮して対処してゆくしかない。

 政治家・経営者にしても記号で片付けないで、実情を直視し舵取りをしてもらいたい。
 原発にしても、いろんな事情や背景も考え、どうしたらいいのかの多様な議論も必要だと思います。

 それから、自分たちの社会を良くするのに、この人はこういう人だときめつけないで、その人の背景なども見て行きたいものです。

 年をとっても、発見することは多い。若い人は、自分が何者かを考えてほしい。年をとって経験することは誰でもできる。経験を通じても、自分はこれからこう活かせるとか、右往左往しながらでも生きていってほしい。

 時には、縦の社会も大事だと思う。横のつながりだけではなく、自分の祖父母・父母・子供であるとか、語り合う。正直、自分はまだ何も知らない・・・と。

 申し訳ありません、長くなりましたが、以上とりとめもない話を続けました。どうもありがとうございました。

(了)


127回卒の新人の皆さん、旧3年の先生方、そして大越氏